2025/04/11
’在る’ということを否定しない
金子 知弘 さん
2011 建築学科卒業(原田真宏研究室)
2013 株式会社MDS一級建築士事務所
2020~ 株式会社日建設計(環境デザイン室)
私は在学時、原田先生の研究室に所属しており、卒業後、アトリエ系設計事務所で意匠設計者として働いた後、今は組織設計事務所でシミュレーションや環境実測等を通した環境コンサルティングの仕事をしています。
そんなルートがあるのか?(意外とあったw)という話もあるのですが、それは置いておいて、今回は今いる場所と大学時代の思い出を繋いでみたいと思います。
以下、曖昧な記憶によるイイカゲンな思い出で、もしかしたら先生はそんなことは言ってない(もしくは、誤解している)とおっしゃられるかもしれませんが、ご容赦下さい。
あれは確か卒業設計のゼミか何かの時だったと思うのですが、誰かが美しい大自然の風景を壊さないよう、建築を全て地下に埋めて、存在を消して、ウンヌンカンヌン~という計画を説明し、原田先生から「’在る’ということを否定している」と嗜められていました。
その言葉は印象的で、今でもふとした時に、ミニ原田先生が頭の中に現れては、「’在る’ということを否定していないか?」と訊ねてきます。
美しい自然の風景を壊したくないからと、建築を埋めて、姿を隠したとしても、そこから発生する大量の残土や、その建築を作る・使うエネルギーはどうしても必要で、その建築を‘無い’ことにはできないし、それよりも美しい自然と一緒に’在る’美しい建築を考えることはできないのか?という主旨だったと思います。
美しい自然に比べたら、建築など醜くて、恥ずかしいものなので、隠してしまいたいと卑下するのではなくて、自然をもっと良くする存在として、自然にも堂々と胸を張って建築を建てられないのか?という問いかけだったのかと思います。
一方で、地下建築案を計画していた誰かのように、鳥の巣や、ビーバーのロッジは良いもので、人間の建築は悪いものだと思えてしまうことは、自分自身にもないこともなく、その原因は何なのだろうか?と考えていました。自分が何となく思い浮かべる建築と、自然とを並べて置いてみた時、どうもしっくりこない、違和感は何なのだろうか?と…。当時は、これといった答えは見つからず、そのままになっていたのですが、今、環境コンサルティングの仕事をしながら思う、その違和感の原因は、建築が周りの自然や環境に与える悪い影響/良い影響のバランス、あるいは自然から貰う量/自然に与える量が釣り合っておらず、建築が貰う量が圧倒的に多いことによる「不平等感」だったのではないか?と思っています。
今では当たり前になったカーボンニュートラルや、ZEB、ZEHという言葉。あるいは、ZWB(Zero Water Building)、PES(payment for enviromental service:生態系サービスへの支払い)等の言葉も、要するに建築(人間)と環境の貰う/与えるものの収支を0にして不平等をなくしましょう(それが循環をつくり、ひいては人間の為になる)という話かと思います。
(ちなみに、「環境とは自分(主体)以外全て」が所属していた建築研究会の衣袋先生の口グセでした。)
風景で言えば、建築が風景を悪化させる量と、風景を良くする量が釣り合っている(もしくは、良くする量が多い)状態にする方法はないのか?あるいは、風景は少し悪くなるけど、他の部分がこんなにも良いことがあって不平等じゃありませんと言えないか?ということかと思います。(何を良い・悪いとするかという話はあるかもしれませんが。)
建築が’在る’ということを否定していないか?
それが大自然の中であろうと、都市の中であろうと、
自然・環境に対して、胸を張って立(建)っている建築。
‘在る’ということを否定しない建築が、どんな姿をしているか。
いつか見られると良いなと思います。
Carbon Neutral Assist ※リンク先p13