石川洋美先生・名誉理事長の最晩年の日々 – 松寿 章

松寿 章
(しょうじゅ あきら)
1978年工学部建築学科卒
株式会社松寿設計コンサルティング一級建築士事務所代表

石川先生は1958年から2003年まで教鞭や理事をされ、その間、1991年から2003年まで理事長をされました。先生が亡くなられて二年ほどになります。私は先生の教え子でありますとともに自宅が常盤台の先生のご自宅から車で数分のところにあることや共に都内下町育ちであること、先生の趣味のゴルフに誘われることもあったことで大学を出てからも親しくさせていただきました。先生は晩年病院に長く入院されていましたが奇跡的に回復され、その後はご自分が設計された自宅のリビングにベッドを移し中庭に面した気持ちのいい部屋でほぼ終日過ごされていました。近くを車で通った時などわけもなくお訪ねするといつも笑顔でよく来たねと言って奥様はお茶菓子を出され、先生から最近思っていることなどお話を聞かせていただきました。先生は芝浦工業大学の発展を願い、【大学経営】などの雑誌などによく文章を寄稿したりされていました。振り返るといつも芝浦の発展や卒業生の活躍を願っていた方でした。

建築学部ができた時に先生から、「建築会と建友会をまとめた新しいOBの会を作って新しい卒業生を迎えるように準備しなさい。また、その会は校友会にも入った方が良いだろう」などと話されていました。「俺は大学の経営に多くの時間を費やしてしまったけど本当はもっと設計の仕事がしたかったんだ。千葉県知事の友納さんと千葉のこどもの国とかやっていた頃は楽しかったよ」とよく話されていたことを思い出します。豊洲への移転が高校も含めて完成し、今後の発展は次の理事長などの方々に任せることとなり、これからは俺も自分のやりたかったリゾートの設計の仕事もやっていきたいと思っていると話されていました。私が先生に自分の仕事で学校やホテルの設計をやる機会はありますが、なかなか質が高いと思えるものができなくて、と落ち込んでいる話をしましたら、“数うち当たれ”というのがあって、量をこなすうちに質も上がるもんだよとやさしい言葉で答えてくれました。「俺はこれまで自分が信じたままに生きてきた。人からはどう思われてもいいんだ。自分を信じて目の前の仕事に一生懸命向き合えばその先に進めると思ってやってきた。今のままでいいんだ」と励まされたのが先生との最晩年の思い出になりました。最後に、先生のいる部屋から見える庭には雑木林があります。丁寧に剪定されているわけではない分木々は気持ちよく育っていて、先生にとっての卒業生たちみたいだなと思っていました。私は雑木林を見るとのびのび自由に育つ木々の姿を静かに眺めている先生の横顔を思い出します。コロナ禍のため石川先生を送る会ができなかったことは残念でしたが、先生のお人柄の思い出はそれぞれ触れ合った人の胸に特別な想いとして残っていくのだろうと思います。